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07年唱元 気儘人 語録   ・欲望と希望とは

音楽 花 好き

唱元 気儘人 語録   ・欲望と希望とは 異なるものではない

2007-11-23 | 無能唱元・唯心円成会
気 儘 人 語録

徒然草の第百十二段で、吉田兼好は「諸縁を放下すべき時なり」と述べています。
 思うにこれは兼好晩年の感慨でしょう。私はこの一文に触れた時,思わず自分の現在の年齢への忠告のようにも感じられ、暫くは呆然としました。

「今は世間の義理はすべて捨て去るべきである」
 要するに,世の中の約束ごとを、ことごとく投げ捨てて,勝手気儘に生きて行こうと言っているわけです。

「すでに日は暮れ,道は遠い,自分の人生はもうケリがついた。もう約束も守るまい,礼儀も思うまい。
 この気持ちの分からぬ人は,氣違いだとも言え、正気の沙汰ではないとでも思え。自分は非難されても一向苦にはしまい」

 この部分を読んだ時、私は思わず快哉を叫びました。
「これあるかな、人の言うことなぞ、もうどうでもいいんだ,自由気儘に生きて行くこと、これだ」
「今,私は晩年を迎え,残り少ない人生を気儘に楽しんで生きて行くことこそが大切なんだ」とつくづく感じ入った次第です。

 考えてみれば、私はこのエンジョーの先月号で、つれづれ草の番外編を書き「言いたい放だい」と題して、人の悪口雑言を目茶苦茶につらねたものでしたが、なんのことはない、とっくに昔に,無意識のうちに私は「気儘人」を演じていたのでした。

 それが,吉田兼好先生の一文に接し、あたかも「気儘人」のお墨つきをいただいたごとく狂喜したのでした。

 さあ、私は喜び、張り切って,余生を勝手気儘に生きて行くことに致しましょう。
 それにつけても,兼好先生ありがとう!
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 周りの人々,社会に迷惑掛けず、自由にエゴでなく,活きて行ければ最高ですが・・
 現実には,人の間に生きる人間としては付き合いがあり・・心だけでも,何も捕われない,自由な氣持ちを・・気儘人かな?・・
 自分の思い通りに・・行動をする と 周りの人に 社会に 気儘人は難しいかな・・

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欲望と希望とは 異なるものではない。
それはともに永遠のあこがれである。
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 効したい!、叶う!様に・・暗示して・・夢叶う


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112 徒然草
 明日は遠國(ゑんごく)へ赴くべしと聞かむ人に、心しづかになすべからむわざをば、人いひかけてむや。
 俄の大事をも營み、切(せち)に歎くこともある人は、他の事を聞き入れず、
人のうれへよろこびをも問はず。問はずとてなどやと恨むる人もなし。
 されば年もやう\/たけ、病にもまつはれ、況んや世をも遁れたらむ人、亦これに同じかるべし。
 人間(にんげん)の儀式、いづれの事か去り難からぬ。
世俗の默し難きに從ひて、これを必ずとせば、
願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、
 一生は雜事の小節にさへられて、空しく暮れなむ。

 日暮れ道遠し〔唐書白居易傳に「日暮而途遠、吾生已に蹉■(足偏+它:た::大漢和37452)」〕、吾が生(しゃう)既に蹉■(足偏+它:た::大漢和37452)(さだ-ママ)たり、諸縁を放下(ほうげ)すべき〔世間の俗關係をひきはなし捨つべき〕時なり。

信をも守らじ、禮儀をも思はじ。
この心を持たざらむ人は、もの狂ひともいへ、現なし、
情なしとも思へ、
譏るとも苦しまじ、
譽むとも聞きいれじ。
徒然草
吉田兼好
 

唱元 つれづれ草 番外編・以前読んだ 虚空遍歴から

2007-10-08 | 無能唱元・唯心円成会
 いつも秀れた文章を書こうと努力していたら,突然,下品きわまる文体のものを書いてみたくなった。
 これも一種の反動かもしれない。ま、われながら、いったいどんなことを書きたいのか、ここは一発やってみるか。

「言いたい放だい」
①「いやな奴」
 いやな奴とはもう会わない。人がどう思おうとも知ったことじゃない。いやなものはいやなんだ。自分が良いのか悪いのか、どちらでもいい、とにかく会いたくないんだ。

②「ケチな奴」
ま,俺だってケチだけど、それでも俺に対してケチな奴には腹が立つなあ。バカヤロめ、しみったれめ。あっちへ行け。シッシッ。

③「あの男」
 あの男,実は俺のことが大嫌いだったんだ、それに気がつかず、俺もバカで、あいつにお世辞使ったりして、いやな顔付きされてさ。ああほんとにバカを見た。ああいやだいやだ,早く忘れちまおう

④「自己嫌悪」
 あの女,少しは俺に氣のあるふりをしてさ。俺もバカだから、ついその気になってさ、ちょっと肩にさわったりして、すかんとはずされて、すっかりハジをかかされた。もう顔も見たくないね。

いやな奴/あの男・・と心に浮かべは・・相手もやな奴と思っている
ケチな奴・・倹約とケチの境は・・倹約を心かけると人付き合いの回数が減ることも
      男女の仲で,ワリカンはありえないかな
      飲み友達の中では・・今日はオモリ,明日はオモッテと

自己嫌悪・・他人と比べ自分が劣ると感じた時に嫌悪感が・・中々自己認証が出来ない
      世界で自分は一人・・似た感じの人は居るけれど・・
       私は素晴らし人間だ と

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自分は価値あるものだと信じよう
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以前読んだ虚空遍歴から
 死ぬことは、この世から消えてなくなることではなく、その人間が生ていたという事実を証明するものなのだ。

 死は、人間の一生にしめくくりをつける、その生涯を完成させるものだ、
消滅ではなく完成だ。・・したくができたから でかけることにするよ・・・

 当人にすれば、この世の終わりだと思えるようなことでも,脇からみればごくありふれた話にしか思えないようなことが幾らもあるでしょう。

 うれしいこと楽しいことよりも、悲しみや,辛い苦しいことのほうが多いのに、どうしてみんな生きてゆかれるのだろうか。

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 怒らず,恐れず、悲しまず、正直 親切 愉快に 活きたいものだ・・中村天風の言葉
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虚空遍歴
 
唱元  「欠陥」こそ人生の贈り物 / 阿闍梨・あじゃり 
2007-09-07 | 無能唱元・唯心円成会

 「欠陥」こそ人生の贈り物
「好きなことをガマンするほど、休みもとらずに働くほど、利口に賢くなるほど、幸せから遠ざかっていくなんて。。。。」 これはロジャー・フーズデンというイギリスの作家です。彼は最近アメリカで活躍し、現代人の実在や精神に関する著書を多数発表してます。 私は彼の逆説的な「異見」(意見にあらず)が大好きなんです。
 以下幾つかの、私がメモった彼の言葉を記してみましょう。 

 「お人好し」になること
 私たちが実践できる最もバカげた美徳の一つは「寛大」です。
 寛大とはようするに、「お人好し」になることです。例えば,相手の誤りや欠点を大目に見てあげることや,相手に有利なように解釈してあげるのは立派な「お人好し」です。いわばこれは一つの諦めかもしれません。「ま、人間なんてそんなものよ」と言ったりしますしね、軽くバカになることだと言えましょう。
 自分のネジを少しゆるめてやるんですね、すると、そこには自意識は働かなくなる、これはいわば、自分が「無」になることなんです。この無になった氣持ちの状態って、とても氣持ちがいいんです。
 ただそれには、それについての意見を一切言わないことが大切です。

「普通で不完全な自分」
 私たちは皆、素晴らしく普通で不完全な、やがて死すべき人間であり、それ以上でも,以下でもありません。
 完璧に価値はないのです。ワビとか、サビとか呼ばれる美学がそれです。
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自分の人生に常に明るく感謝しよう。
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 お人好し・・何事も正しいものも無し 何事も正しいもの有り 余分な観方 余分な味付けが無く・・あるがままに 観る

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 阿闍梨・あじゃり TVで観ました・・何も余分な物を背負ってない 何も余分な思いが無い 何も余分な身が無い・・削ぎとった後の笑顔は無であるのかな・・
 一日一足の草鞋が・・削ぎ取った足裏を観る

 阿闍梨(あじゃり、あざり、アーチャーリャ、ācārya、Sanskrit、阿闍梨耶とも音写)サンスクリットで「軌範」を意味し、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠のことである。
 ヴェーダの宗教ではヴェーダにおける規範を伝授する指導者を、また部派仏教においては修行僧たちの規律を指導し、教義を伝授する高僧をいい、教団によって種類は異なるが、指導内容ごとに複数の阿闍梨がいた。
 密教においては、大日如来等の諸仏を指すことがあるが、一般には衆僧の模範となるべき高位の僧侶の称号で、日本では天台宗および真言宗において高貴な身分の僧や、天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられる職位である。
 日本で阿闍梨と称される僧には、法を教授する教授阿闍梨、伝法(術、経文など維持発展に必要な総ての要素)の灌頂(修得儀礼)を受けた者がなる伝法阿闍梨(でんぽうあじゃり)、比叡山、伊吹山、愛宕山など特に朝廷から指定を受けて五穀豊穣を祈る儀式を行う寺院において祈願の勅命を与えられて導師を務める者がなる七高山阿闍梨(しちこうざんあじゃり)、皇族や摂関家の子弟から仏門に入り、貴種のゆえをもって若いうちに阿闍梨の称号を許された者がなる一身阿闍梨(いっしんあじゃり)などがある。また、伝法阿闍梨のうち特に徳の高いものを大阿闍梨(だいあじゃり)といった。
 
 天台宗の荒行「千日回峰行」に挑んでいる星野圓道さん(32)=延暦寺大乗院住職=が13日、比叡山の無動寺谷・明王堂(大津市坂本本町)で、「堂入り」の行に入った。千日回峰行で最大の難関とされ、断食、断水、不眠、不臥で9日間こもる。堂入りする行者は6年ぶり、戦後12人目。
 堂入りは、千日回峰行の700日を終えた行者が不動真言を10万回唱え、本尊の不動明王と一体となることを目指す。毎日午前2時ごろに近くの閼伽(あか)井にお供えの水をくみに行くが、それ以外は堂にこもる。5日目から水で口をすすぐことだけが許される。生死をかけて挑むことから「生き葬式」とも呼ばれる。
 正午、白装束の星野さんは明王堂に隣接する法曼(まん)院で「斎食(さいじき)の儀」に臨み、酒井雄哉さんら大阿闍梨(あじゃり)と最後の食事を取った。午後1時ごろ、明王堂前に姿を見せると、縁者や信者が手を合わせて無事に満行するよう祈った。星野さんは静かに入堂し、立ち会いの僧侶らが退堂し、正面の扉が閉じられた。
 満行すれば、21日未明に堂から出る。星野さんは東京都生まれ。1990年に出家得度。花園大卒。2003年に千日回峰行に入った。
 
阿闍梨
比叡山 延暦寺