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感情的エネルギー

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感情的エネルギー

2006-11-12 | 無能唱元・唯心円成会
空 観
 「人は病いの器である」という古い言葉があります。 まことに尤もと言わざるを得ない言葉であります。
 しかし、これは主として、「人の体について」の言葉です。私は、その他に「人の精神について」の部分があるべきだと思うのです。すなわち「人は失意の器である」という言葉そこに付け加えたいのです。
 人は、出来るだけ、病気にかからず、またかかっても、出来るだけ、速やかに治す、とこれは万人共通の願いであり、これを「養生」というのでありますが、この養生は、各人の人間としての権利であると同時に、義務でもありましょう。
なざなら、病気の苦痛を癒すのは、当然、当人の欲求ですが、同時に病気は、はた迷惑となるかです。つまり、病気を治すのは、人の義務でもあるのです。

 しかし、これも、沈んだ気分は、とかく、周囲の人々にマイナスの気分を引き起こすことを考えてみれば、その、はた迷惑さは、体の場合と同罪であると理解されましょう。
 否、体の病気は、気分を変えただけでは、なかなか治りにくいことが、しばしばあることと比べれば、精神の方のそれは、少なくとも、自分の氣分を変えれば済むことですから、その責任性はもっと重くなる筈です。

 私の記憶に誤りがなければ「不機嫌なるほど、大きな罪はない」と言ったのは「幸福論」を書いたアランだと思いますが、けだし名言だと思われます。
 この意味で考えれば、人がマイナスの気分でいるとことは、単に不健康というよりは、むしろ「精神的な病い」であると言っても、言い過ぎではないかも知れません。
 しかし とは言っても、これはただ単に「氣分を明るくせよ」と命じても、おいそれと、マイナスの気分をプラスに転換できるものではありません。こんな時はどうしたら良いでしょうか?
 仏教では「空観」という意識状態に入ることによって、マイナスの気分を払い捨てることが出来る と教えております。
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 けして 病があろうとも 心まで 病ます まい

コップ、イッパイの水を入れ替えるには、一滴一敵・・新鮮な水を注ぐ・・

心の垢も・・積極的な言葉を注ぎ込む・プラス言葉を・・

空   氣が陽であれば
2006-11-13 | 無能唱元・唯心円成会
氣が陽であれば
 私は、心の健康のたと称して「病人は、まず自分の病気の話はしないように」と説法会でよく言ういます。
 そのためには、まず第一に「病名を口にしないことだ」とも言います。
自分の病気を話題にしていると、その話が自分の耳に入り、新しいイメージとなって、アラヤ識に入ってしまうからなのです。
 すると、その因は、再び増長された病気の果として現われす。そして、それは慢性の病気となって、なかなか治らないことになるのです。
以上のような理由で、「病人は、自分の病氣の話はしないように」と講話の折に話していた次第です。
 しかし、私の考えも、最近では少し変わりました。

病人も、そんなに、自分の病氣について話したかったら、場合によっては、少しぐらい話をしても構わないのではないか、と考えるようになったのです。
 ただし、それはあくまでも「場合によっては」なのです。ではその「場倍」とは、どんな場合なのでしょう?
 それは、その話し手の氣が「陽」なる場合にあった時に限るのです。

病気で良く、手術の傷痕を見せる人がいますが・・それらの人々が、傷痕の話をする時は、どこか誇らしげだったことを思い出します、これは言い換えれば、この時、彼らは「いい気分」だったのです?
 人は自分の病氣のことを話す時、よく観察して見ると、嬉しそうにしていることがあります、
 こんな時、当人が話したきゃ、話してもいいんじゃないかと思います。
なにしろ、昔の言葉に
「言わざれば、腹ふくるる思いこそすれ」とありますかね。

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 確かに、病になっても、心が病でなければ・陽・・お見舞いにいって傷なり病気に付いて良く説明・解説してくれる病人もいますね。・・病は気から・・たとえ病があろうとも心まで病すまい・・氣を確かに・・